「起業家」藤田晋

買収ゲームから会社をなんとしても守らなければならない。

そう私は決意し、可能な限りの努力も我慢も、何でもしていたつもりでした。

それでも突破口が見い出せずにいました。そして最後にとうとう絶望し、会社を手放す覚悟を決めました。

そんな時、救いの手を差し伸べてくれたのが、楽天の三木谷浩史社長でした。三木谷社長はその場で、10億円を投資してサイバーエージェント株の10%を買い取ることを約束してくれました。

(当時藤田28歳・三木谷36歳)

 

創業した時点では同じような規模だった会社が、倍々ゲームで規模を増大させていく。そして気が付けば大きな差をつけられている。

そんな状況を役員会では棒グラフに起こし、サイバーエージェントの実績と並べて比較していました。時系列と共に売り上げも利益もどんどん差が広がっていくさまを目の当たりにしつつも、

「…すごいよね」

そんな言葉以外は、私の口からも、他の役員の口からも出てはきませんでした。

(当時藤田30歳/上場4年目)

 

AKB48を手掛ける前の秋元康さんと仕事をしていて、人材業界・広告業界で働く人たちの仕事に対する姿勢との違いに驚きました。

クライアントや業界づきあいなど、企業を相手に仕事をしてきた我々に対して、秋元さんはひたすら視聴者、ユーザーと向き合って、面白いことや心を掴むことをやろうとしていました。

 

営業職出身だった私は、「自分で営業していたら会社は大きくならない」と強く信じていました。

会社とは、みんなで組織的にやることによって個人では決してできないような大きな仕事を成し遂げるためにあります。

そのためには経営者は経営に徹した方が会社は大きくなる。そのような考えに従い、最初こそ客先に自分で出向くことがあったものの、創業半年くらい経つと、私は自分で営業するのは一切やめてしまい経営に徹することにしたのです。

 

私が1998年に最初に起業した動機は「すごい会社を創りたい」というものでした。

インターネットが好きだったわけでも、起業家に憧れていたわけでも、金持ちになりたかったわけでもありません。

大学時代にアルバイトで働いていた会社の専務に「すごい会社に入ったやつが偉いんじゃない。すごい会社を創ったやつが偉いんだ」と言われたことだったと思います。

 

新規事業に投資する際の基準となるルールを作りました。

そのルールを「CAJJ制度」といいます。

この制度はシンプルで、「1年半で黒字化しないと撤退」ということと「赤字の下限を決めている」という2本の柱から成り立っています。

これには、「1年半」という先行投資に期限を設け、「小さく生んで大きく育てる」という概念が盛り込まれていたのです。

最初から基準が決まっていれば「私も続けたいんだけど、ルールで決まっているのでどうにも…」と社長の私まで抗えない力として諦めることができます。

 

堀江さんは自分が起業した会社の名前をライブドアに変えてまでも、メディア企業に変身し、知名度を上げに行っていたほどの人です。

頭の回転も速く、私は今まで堀江さんより頭が良い人に会ったことがない気がします。性格は強気で、小さなベンチャー企業を経営している実態とはかけ離れた、大きなことをよく語っていました。起業したばかりで売り上げもほとんどないような時期から「ヤフーは抜ける」などと大きなことをとんでもないタイミングで語っていました。

しかし、そんな言動とは正反対に、実際にやっている事業は請負制作を始めとする、驚くほど手堅い事業ばかりでした。過剰なリスクは負わず、転んでも生き残れる範囲までの勝負しかしていない印象でした。

だから、ニッポン放送買収のための800億円調達の話を聞いたとき、今までの堀江さんとは違う、臆病さがさっぱりと消えたような変化を感じました。たとえていえば、糸が切れた凧を見ているような感覚に陥ったのです。

 

経営者が何らかの違和感を覚えたら、それは介入のGOサインだと考えて間違いないと思います。

事業責任者のところに行って、なぜそんな仕様にしているのかをしつこく問いたださなければなりません。

 

流れが良いと判断した時期は仕事をさぼってはいけない。

そういう信条が私にはあるので、集中力を切らさないように、寝る時間以外は全て仕事に費やしていました。

 

逮捕当時、堀江さんが世間でものすごく叩かれていたので、堀江さんと関わると損をするという人もいました。

しかし、ネットバブル崩壊後、良い時は寄って来ていた人たちが、周りから一斉に消えていったのを私自身が経験していました。

だから自分は絶対に堀江さんに対する態度を変えないと決めていたのです。

 

総合プロデューサーとして、私はアメーバ事業部のメンバーに言いました。

「もっとユーザーに支持されるサービスを作らないとダメだ」「もう売上はいいから見るな」

しかし、事業部内に私が総合プロデューサーになったことが伝わっているという手ごたえは何もありませんでした。

最終的に、「何度も繰り返し言い続け、自分でやってみせ、背中で見せない限りはダメ」と理解できるのは、それから1年ほど後のことですが、この時にはなぜなのか、理由が分からず苦しんでいました。

(当時藤田33歳)

 

私は、自分でも温厚な性格の持ち主の経営者だと思っています。

しかし、アメーバが最後の切り札になってからは、経営のスピードの遅さにいつも苛立つようになっていました。

その頃の私は、なるべく社内でイライラした姿を見せないようにしていたつもりなのですが、そのストレスからか、夜は浴びるように酒を飲み、眠りにつく直前まで自宅で葉巻を吸い続ける毎日でした。どんなに遅く帰宅してもそこから酒と葉巻をやり始め、頭が朦朧としてくるのを待ちました。仕事のことを考えると焦りや怒りで頭が冴えてしまい、まさに気絶するように頭のスイッチが切れないと眠れなかったのです。

 

自分のスケジュールをアメーバ関連の予定で全て埋め尽くしました。

今までやっていなかった現場との打ち合わせをぎっしり詰めたのです。それ以外の予定は基本的に一切入れないと決めました。

社長業で力を入れてきた、採用、取材対応、IRなども一切止めてしまいました。自分には集中が必要な時期だったのです。

 

ユーザーにとって何が正しいのかという判断は、最終的には誰にも委ねず、全て私が独断で決めるようにしました。

まだその頃は自分のプロデューサーとしての経験も浅かったのですが、アメーバのヘビーユーザーである私には、何がユーザーにとって有益なのか、何が不便なのか、その判断基準は誰よりも自分の中にあるということには自信がありました。

 

何よりも「素晴らしいプロダクトを生み出していけば何とかなるんだ」という意思を伝え続ける日々が続きました。

それは口先だけの伝達ではなく、トップである私が隅から隅まで目を配っていることを伝えることだったのです。そうしないと、皆頭では分かっていても必ずブレていく…その怖さも、その頃の私は痛切に感じていました。

逆に良いサービスを作ってページビュー数を伸ばす働きをしたメンバーは、大げさに褒めたり、豪華な食事をご馳走したりもしました。特にヒットサービスを開発した技術者は、私自ら最大級に手厚く扱うようになりました。

 

自分なりにブログサービスの将来像は描いていました。柱になるようなメディア事業へと成長させると言った根拠も全くないわけではありませんでした。

しかし、正直に言えば、競合が誰もいなくなった状況が不安ではありました。

また、収益化に関して確たる自信は、本当はありませんでした。

その道が正しいのかどうか、その先にゴールがあるのかどうかも分からないまま走り続ける、孤独なマラソンのようでした。

 

収益のことは、30億ページビューを超えれば伸びてくると公言していた手前、正直気がかりではありましたが、自分では一切見ないようにしていました。

それは、時折、不安が芽吹きそうになる自分の心の弱さに打ち克つために、あえてそうしていたのです。ひとたび収益を見てしまうと、メディア事業が育たなかった以前のサイバーエージェントに逆戻りするような気がしていました。

 

私は現実から目を逸らしていたわけではありません。

経営者として大局的な視点に立てば、ページビューを伸ばすことがメディア事業を行う上で、一番避けてはならない重要な指標だと冷静に判断していたのです。

そして、その仕事に自らも含め経営資源を最大限に投じていました。

決算説明会の場では、相変わらずアメーバに関心を持つ投資家やアナリストはほとんどいませんでした。

私は不感症のように、アメーバ馬鹿になり切って、アメーバの将来性を説明し続けました。

2007年に退路を断ってアメーバに集中し始めてからは、マスコミの取材を受けるのをやめました。投資家に関心を持ってもらうことも諦め、IR活動も極端に減らしました。

もう二度とブレないために、マシーンのように感情を捨て、アメーバのプロデュース業に専念しました。

 

我々のアバターは、同じアバターでもブラウザ上で動いて、主婦でも簡単に使えるかわいいサービスというのをコンセプトにしていました。

そのプロジェクトの名前は “ アメーバピグ ” 。

名村を中心に社内の精鋭10名程度が集まって、たったの3ヶ月余りで開発したそのサービスは、リリース直後から大ヒットを予感させる反響を得ることになりました。

その反響とは、まず出した瞬間からサイバーエージェントの社員たちがはまっていったことでした。あまりにはまったせいで、社内の業務が止まっているのではないかと心配になるほどでした。

 

アメーバピグという新しい武器を得た私が一番初めに会いに行ったのは秋元康さんでした。その頃、秋元さんが長年苦労していたAKB48が、ついに爆発前夜といったタイミングでした。

私がアメーバピグの説明を始めようとすると、

「藤田んとこのアメーバ今なん年?」

「5年です」

「じゃあAKB48と苦節5年同士だね」

そう言って、ろくに内容も聞かず、快くアメーバピグ上にAKB48のエリアの開設を承諾してくれたのです。

 

迎えた2009年9月、アメーバ事業部はついに損益分岐点を超えて黒字化しました。

黒字化したとき、私の胸に去来した想いはただ安堵感だけでした。何か達成感のようなものが湧きあがるのだろうか、とも思っていましたが、特別な感情はなく、その時にはもう次の目標のことが頭の中の大半を占めていました。

(当時藤田36歳)

 

本当の意味での黒字化するまで、アメーバの立ち上げから6年もかかってしまいました。

その間の累積の赤字額は60億円に上ります。

決算説明会の場では、その累積赤字を全部返すのにあと1年もかからないだろうという見通しを説明しました。

 

1998年に会社を創業し、2000年に上場を果たし、2004年から黒字化しました。

しかし、私にとっては2010年の決算で、ようやく思い描いていた会社の原型ができたことを実感しました。

それは、足掛け12年の悲願の達成でした。