「宗教なんかこわくない!」橋本治

以下、気になった部分を抜粋

現在の「宗教」は、信者の親睦会であり、勉強会であり、残された古い遺跡を守る文化団体であり、「これがなくなるとどうしたらいいか分からない」と言うであろう人間のパニックをなくすための暫定期間なのである。

だから私は「もはや宗教は無力だ」などとは言わない。だから私は、「宗教を特別視するのはやめろ」と言う。

 

「宗教のいらない理由」というのは、「私にはもうこれがあるから宗教はいらない」という形で説明される。

宗教を不必要とするものは、ただ「なんでも自分の頭で考えられること」なのだ。

つまり「宗教」とは、「まだ登場しないあるものの前段階」であるようなものなのだ。

「自分の頭でものが考えられない人間の前段階とは、神様や教祖様という絶対者からの指示待ち状態、すなわち宗教である」と。

 

宗教は解体された。

だからこそ人間は、今や信仰抜きでも「美しいもの」を作り出せる。

宗教とは、「まだ人間達が自分の頭で十分にものを考えられない時期に作り出された生きていくことを考えるための方法」なのである。

だから、「まだ考えられないところは、信じるということにしなさい」という保留がついている。

 

「救世主を信じること」と「救世主のようになりたい」は、真っ向から対立する思想である。

だからこそグノーシスは、キリスト教の初期段階で異端として滅ぼされた。

これが弾圧されちゃったもんだから、宗教というものがややこしくなった。宗教は「そうなりたい、成長したい」であってもいいはずのものなのに、しかしそれが禁じられてしまったからである。

そのことによって、この宗教は「大人になれない、子供のままでいる」を強制することになってしまった。

だから、西洋の歴史が成熟して、人間達が「大人になりたい」と思い始めたとき、人間は宗教から独立するしかなくなって、宗教は「捨てられたおとぎ話」になってしまったのである。

 

「どんな宗教を信じるのも自由」ということの裏には、「なぜならば、もうどんな宗教にも特別な力はない」という理由しかくっつかない。

国家が「信仰の自由」を標榜してしまって、ある宗教だけを独占的に保護するということをしなくなった段階で、「すべての宗教は宗教としての意味を既に失っていた」ということを暴露する。それだけの話である。

 

必要なのは、宗教でも指示でも教祖でもリーダーでもなくて、自分の頭で考えられるようになること、日本に近代化の必要が叫ばれるようになってから、日本人に終始一貫求められているものは、これである。

残念ながら、自分の頭でものを考えることの必要が理解されて、これがクリアーされるまで、日本人に近代なんかは訪れないのだ。