「ゴータマは、いかにしてブッダとなったのか」佐々木閑

以下、気になった部分を抜粋。

仏教の考え方の基本は原因と結果による厳格な因果則です。

それをよく理解して、そのうえで自助努力、自己鍛錬によって人生の苦しみを消しなさいというのです。

お釈迦様の教えは何かにすがったり頼ったりせず、自助努力によって自分の苦悩を解決していこうとする自律的な宗教です。

 

仏教発祥の地はインドです。

しかし、その本家本元のインドでは仏教は滅びてしまいました。いまから千年くらい前です。

理由は、ヒンドゥー教の大きな波に飲み込まれたことにあります。

 

インドに住んでいる人たちは過去三千年以上にわたって、このカースト、ジャーティ制度に縛られながら生きてきたのです。

この制度のいちばんの問題点は、「けがれ」の概念です。

カーストのいちばん上に立つバラモンはまったくけがれがありません。下の階級に行くほど人が持つけがれの量が増えます。それは個人の努力で増やしたり減らしたりできるものではありません。この世に生まれたときから生まれ持っているものです。

しかも悪いことに、けがれは伝染します。どうやってうつるのかというと、接触感染、経口感染、視覚感染です。

 

バラモン教の世界ではものごとはなんでも神様たちの思いの反映です。

カーストという制度も神様が決めました。

カースト制度を否定するためには、バラモン教をまるごと否定しなければならなくなるのです。

だからこそ、お釈迦様はバラモン教に対抗しうる新しい宗教を作る必要があったのです。

(バラモン教はのちにもっと世俗化して、様々な神様を取り込んで「ヒンドゥー教」という宗教になります)

 

お釈迦様がおつくりになった仏教は千五百年続いたのですが、結局は滅んでしまったのです。いまからちょうど千年くらい前です。

滅びたのは仏教自身の問題だったと思います。それはつまり、ヒンドゥー教のパワーに巻き込まれたのです。

もしそのまま仏教が本来のあり方を守って、バラモン教に対抗し続けていたなら、いまのインドにカースト制度はなくなっていたでしょう。しかしそれは、依然として存在します。お釈迦様の思いは叶わなかったということです。

 

苦しみをなくすことは基本的に不可能です。諸行無常を止めることなどできないからです。

ではどうするかというと、諸行無常の世のありさまを受け止める私たちの心のほうを変えるのです。

これが、お釈迦様が見つけ出した生き方です。

 

日本にはたくさんの宗派があります。

曹洞宗や臨済宗のような禅宗もあれば、天台宗や真言宗のような密教もあります。

ほかにも様々な宗派が活動していますが、それらはぜんぶ大乗仏教です。

そのどれもが仏教の原型からするとかなり様変わりしています。

「皆で仏を目指そう」という考えです。これが大乗仏教です。

 

お釈迦様の教えをいまも色濃く受け継いでいる上座部仏教では、仏といえばお釈迦様のことです。お釈迦様お一人です。ほかに仏はおられません。

お釈迦様がおつくりになった本来の仏教では、一人の仏様が亡くなって次の仏がこの世に現れるまでには数十億年(56億年後)もかかると考えていました。

ですから本当なら二千五百年前にお釈迦様が亡くなって以来、いまなお「仏」は不在であるはずなのです。

次に現れる予定の仏は「弥勒(みろく)」という名の方で、現在は「弥勒菩薩」として、天の世界で修行中です。

京都の広隆寺に指を頬にあてがって思案中の半跏思惟像があります。あの弥勒様だけがお釈迦様の次にこの世に現れる予定の、目下修行中の菩薩と考えられていたのです。

しかし、大乗仏教がそのシステムを変えました。

たくさんの仏様が同時に登場できるようにしたのです。その結果、まるで八百万の神様のように仏様が増えました。そしてお釈迦様はたくさんの仏様のうちの一員にすぎなくなってしまったのです。

 

紀元後すぐに、両者がシルクロードを通って中国に伝わったとき、中国の人々はこれが同じ一つの宗教なのかと驚きました。

そして二つを見比べて、自分たちにはお釈迦様の仏教よりも大乗仏教のほうがなじむと考え、大乗仏教を主に取り入れました。

日本にはその中国から仏教が伝わりましたから、日本は大乗仏教一辺倒の国になったのです。