以下、気になった部分を抜粋(仏教に関する箇所)。
仏教の中心的存在は神ではなくゴータマ・シッダールタという人間だ。
人間の苦悩の本質や原因、救済の探求に六年を費やした後、ついに、苦しみは不運や社会的不正義、神の気まぐれによって生じるのではないことを悟った。
苦しみは本人の心の振る舞いの様式から生じるのだった。
心はたとえ何を経験しようとも、渇愛をもってそれに応じ、渇愛はつねに不満を伴うというのがゴータマの悟りだった。
ゴータマはこの悪循環から脱する方法があることを発見した。
心が何か快いもの、あるいは不快なものを経験したときに、物事をただあるがままに理解すれば、もはや苦しみはなくなる。
ゴータマは、渇愛することなく現実をあるがままに受け容れられるように心を鍛錬する、一連の瞑想術を開発した。
この修行で心を鍛え、「私は何を経験していたいか?」ではなく「私は今何を経験しているか?」にもっぱら注意を向けさせる。
渇愛の火を完全に消してしまえば、それに代わって完全な満足と平穏の状態が訪れる。
それが「涅槃」として知られるものだ。
ゴータマ自身は涅槃の境地に達し、苦しみから完全に解放されたという。
その後、「仏陀」と呼ばれるようになった。ブッダとは、「悟りを開いた人」を意味する。
彼は自分の教えをたった一つの法則に要約した。
苦しみは渇愛から生まれるので、苦しみから完全に解放される唯一の道は、心を鍛えて現実をあるがままに経験することである、というのがその法則だ。
「ダルマ」として知られるこの法則を、仏教徒は普遍的な自然の法則と見なしている。
一神教の第一原理は、「神は存在する。神は私に何を欲するのか?」だ。
それに対して、仏教の第一原理は、「苦しみは存在する。それからどう逃れるか?」だ。
仏教は、経済的繁栄や政治的権力のような途中の地点ではなく、苦しみからの完全な解放という究極の目的地を目指すように人々を促した。
だが、仏教徒の九十九パーセントは涅槃の境地に達しなかったし、いつか来世でそこに達しようと望んでも、現世の生活のほとんどを平凡な目標の達成に捧げた。
そこで彼らは、インドではヒンドゥー教の神々、チベットではボン教の神々、日本では神道の神々というふうに、多様な神を崇拝し続けた。