「学校的日常を生きぬけ」宮台真司

以下、気になった部分を抜粋

人は他人とのコミュニケーションを通じて肯定され、承認されて、自尊心や尊敬を獲得する。

そうした人にとって、「自分が自分であること」が他人や社会の存在を必要とするのは自明であって、「なぜ人を殺してはいけないか」などという疑問が浮かぶはずもない。

 

一般的に、男の子の方が生命力があるように誤解している人がいるし、田舎の方が生きやすいように誤解している人もいるけど、それは180度逆なんです。

その誤解は、コミュニケーションチャンスがどっちの方がたくさんあるのかということに関する勘違いです。

コミュニケーションチャンスが多ければ多いほど代わりは選べる。

それで言うと、男の子はキツイし、なおかつ田舎に住んでいればますますキツイ。

 

学校なんて「通過」するぐらいのもんでちょうどいいんです。

教師と生徒の裸と裸のぶつかりあい、なんて過剰な期待を抱く方がおかしい。

 

民俗学者の研究によっても、そもそも性と人格が一致したセックス、つまり貴婦人を崇めるロマンチック・ラブは歴史的にいえば、日本には一切存在しない。

西洋社会で十二世紀から始まった恋愛史の伝統があって、庶民に一般化するのは十九世紀ですから、ぼくたちが言っている恋愛は、二百年たらずの伝統しかない。

 

貧しい社会では、失えないものがあると思えるのに、成熟社会になると、全部失ってもいいと思う連中が出てくるんですね。

酒鬼薔薇聖斗が、「透明な存在」と言ったときの広義の意味はそこだと思う。

世界が自分を必要としていない分それと同じ重さで、自分も世界を必要としていない、世界が自分をどうでもいいものとして扱う分、世界なんてどうでもいい、というアングルです。

 

社会的存在、つまり社会によく適応し、社会が存続することに貢献する身体ということで言えば、学校的身体や共同体的身体はむしろ社会的でありえない。

教室に適応しないで、自分のことは自分で決める。

あるいは教室内のローカルなコミュニケーションに適応するよりも、学校外の文化状況や情報環境に適応すること。

そうした振る舞いをする子の方が社会的存在になりうるチャンスを持っている。

学校に囲いこまれ、教員や親の言うことを信じ、勉強すれば偉くなると思っているような子どもは、適応不全がわかったときに、反社会的な存在に反転しうると思います。