「嫌われる勇気」岸見一郎

あなたは人生のどこかの段階で、「不幸であること」を選ばれた。

それは、あなたが不幸な境遇に生まれたからでも、不幸な状況に陥ったからでもありません。「不幸であること」がご自身にとっての「善」だと判断した、ということなのです。

もちろん道徳的な意味での善ではなく、「自分のためになる」という意味での善、ですが。

 

われわれは原因論の住人であり続けるかぎり、一歩も前に進めません。

アドラー心理学では、過去の「原因」ではなく、いまの「目的」を考えます。

アドラーの目的論は「これまでの人生になにがあったとしても、今後の人生をどう生きるかについてなんの影響もない」といっているのです。

自分の人生を決めるのは、「いま、ここ」に生きるあなたなのだ、と。

 

自由とは何か?

「自由とは、他者から嫌われることである」と。

あなたが誰かに嫌われているということ。それはあなたが自由を行使し、自由に生きている証であり、自らの方針に従って生きていることのしるしなのです。

他者の評価を気に掛けず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。つまり、自由になれないのです。

 

普通を拒絶するあなたは、おそらく「普通であること」を「無能であること」と同義でとらえているのでしょう。

普通であることとは、無能なのではありません。わざわざ自らの優越性を誇示する必要などないのです。

 

人生を登山のように考えている人は、自らの生を「線」としてとらえています。

しかし、こうして人生を物語のようにとらえる発想は、フロイト的な原因論にもつながる考えであり、人生の大半を「途上」としてしまう考え方なのです。

線としてとらえるのではなく、人生は点の連続なのだと考えてください。

「いま」という刹那の連続です。われわれは「いま、ここ」にしか生きることができない。われわれの生とは、刹那のなかにしか存在しないのです。

 

人生とは、いまこの瞬間をくるくるとダンスするように生きる、連続する刹那なのです。

そしてふと周りを見渡したときに「こんなところまで来ていたのか」と気づかされる。

いずれの生も「途上」で終わったわけではない。ダンスを踊っている「いま、ここ」が充実していれば、それでいいのです。

 

目的地に到達せんとする人生は「キーネーシス的(動的)な人生」ということができます。

それに対して、わたしの語るダンスを踊るような人生は「エネルゲイア的(現実活動態的)な人生」といえるでしょう。

キーネーシス的な人生では、その始点から終点までの運動は、できるだけ効率的かつ速やかに達成されることが望ましい。目的地にたどり着くまでの道のりは、目的に到達していないという意味において不完全であると。

 

人生全体にうすらぼんやりとした光を当てているからこそ、過去や未来が見えてしまう。

しかし、もしも「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てていたら、過去も未来も見えなくなるでしょう。

人生は連続する刹那であり、過去も未来も存在しません。

あなたは過去や未来を見ることで、自らに免罪符を与えようとしている。過去にどんなことがあったかなど、あなたの「いま、ここ」にはなんの関係もないし、未来がどうであるかなど「いま、ここ」で考える問題ではない。

 

人生を物語に見立てることはおもしろい作業でしょう。

ところが、物語の先には「ぼんやりとしたこれから」が見えてしまいます。しかも、その物語に沿った生を送ろうとするのです。わたしの人生はこうだから、そのとおりにいきる以外にない、悪いのはわたしではなく、過去であり環境なのだと。

しかし、人生とは点の連続であり、連続する刹那である。そのことが理解できれば、もはや物語は必要なくなるでしょう。

 

エネルゲイア的な視点に立ったとき、人生はつねに完結しているのです。

たとえ「いま、ここ」で生を終えたとしても、それは不幸と呼ぶべきものではありません。20歳で終わった生も、90歳で終わった生も、いずれも完結した生であり、幸福なる生なのです。

 

アドラーは「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」とまで断言しています。

個人だけで完結する悩み、いわゆる内面の悩みなどというものは存在しません。どんな種類の悩みであれ、そこにはかならず他者の影が介在しています。

 

仕事そのものが嫌になったのではありません。

仕事を通じて他者から批判され、叱責されること、お前には能力がないのだ、この仕事に向いていないのだと無能の烙印を押されること、かけがえのない「わたし」の尊厳を傷つけられることが嫌なのです。つまり、すべては対人関係の問題になります。

 

対人関係の軸に「競争」があると、人は対人関係の悩みから逃れられず、不幸から逃れることができません。競争の先には、勝者と敗者がいるからです。

人間関係を競争であると考え、他者の幸福を「わたしの負け」であるかのようにとらえているから、祝福できないのです。

ひとたび競争の図式から解放されれば、誰かに勝つ必要がなくなります。「負けるかもしれない」という恐怖からも解放されます。他者の幸せを心から祝福できるようになるし、他者の幸せのために積極的な貢献ができるようになるでしょう。

「人々はわたしの仲間なのだ」と実感できていれば、世界の見え方はまったく違ったものになります。

 

人が課題を前に踏みとどまっているのは、その人に能力がないからではない。

能力の有無ではなく、純粋に「課題に立ち向かう『勇気』がくじかれていること」が問題なのだ、と考えるのがアドラー心理学です。

 

人は「わたしは共同体にとって有益なのだ」と思えたときにこそ、自らの価値を実感できる。

共同体、つまり他者に働きかけ、「わたしは誰かの役に立っている」と思えること。他者から「よい」と評価されるのではなく、自らの主観によって「わたしは他者に貢献できている」と思えること。

そこではじめて、われわれは自らの価値を実感することができるのです。

 

『神よ、願わくばわたしに、変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とをさずけたまえ』

われわれは「なにが与えられているか」について、変えることはできません。

しかし、「与えられたものをどう使うか」については、自分の力によって変えていくことができます。

 

他者貢献が意味するところは、自己犠牲ではありません。

むしろアドラーは、他者のために自分の人生を犠牲にしてしまう人のことを、「社会に過度に適応した人」であるとして、警鐘を鳴らしているくらいです。

他者貢献とは、「わたし」を捨てて誰かに尽くすことではなく、むしろ「わたし」の価値を実感するためにこそ、なされるものなのです。

 

刹那としての「いま、ここ」を真剣に踊り、真剣に生きましょう。

過去も見ないし、未来も見ない。完結した刹那を、ダンスするように生きるのです。誰かと競争する必要もなく、目的地もいりません。踊っていれば、どこかにたどり着くでしょう。

 

アドラーは「一般的な人生の意味などない」と語ったあと、こう続けています。

「人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」と。