「人はなぜ『美しい』がわかるのか」橋本治

以下、気になった部分を抜粋

「美に関する知識」だけは持っていて、そのくせ「美しい」がピンとこない人は、いくらでもいます。

「美しいが分かる」というのは、「美に関する知識の獲得」ではありません。

「コレコレが美である」という境界を明確に定めて、「その正解を数多く記憶することこそが美の理解だ」という教育が時折ありますが、私は賛成出来ません。

「分からなければ美ではない」と、私は考えます。

 

「合理的な出来上がり方をしているものは美しい」とか「美しいものは合理的な出来上がり方をしている」というのは、嘘です。

なぜかといえば、そこに「合理的」という言葉を登場させること自体が、「人間の都合」だからです。

 

「合理的」とは、人間の上に稀にしか訪れない「いとも自然な状態」です。

だからこそそれを、人は「美しい」と思うのです。

「合理的だから美しい」のではなく、「思惑を超えた自然だから美しい」なのです。

「美しい」と「合理的」をイコールにするのは結果論で、その「美しい」は利害による思い込みを排除した、ごく稀に訪れる「人の自然状態」でしかないのです。

 

人の「自然体」とは、「人としての一般論と、個としての各論が、ちょうどいい案配にマッチした状態」のことで、人というのは、「自然」であることにおいてさえも、「意図的」を必要とする生き物なのです。

人の「自然」は、放っておいても訪れません。

「積み上げられた経験」と、その経験を放擲(ほうてき)してしまう「度胸」との両方があって、ようやく訪れてくれる、あるいは訪れてくれるかもしれないものなのです。

 

この世のありとあるものは、ありとあるものの必然に従って「美しい」のです。

「ありとあるものの必然」とはなんでしょうか?

ありとあるものは、「人間の都合と関係なく存在している」ということです。

利害を超越した目で見られたとき、人間の都合によって「存在しない」ということにされているものは、どのように見えるのか?

それは、ただ「存在している」と見える。

そして、利害とは関係なく「ただ存在しているだけのもの」を見たとき、人は「美しい」と感じる。

 

自然界に「危険なもの」はあっても、「醜いもの」は存在しません。

「醜い」は、人間にだけ関わるものなのです。

「存在に美醜はない」と言って、私は「人間の存在にだけは美醜がある」と思います。

なぜかといえば、人だけが「自分の存在」を作るからです。

人の「存在」の美醜は、容貌とは直接に関係がありません。

自分の容貌をどのように解釈するかが「人の都合」で、人の美醜はその下にあります。

だから、「美しい容貌を持つ、存在が醜い人」というのは、ちゃんといます。

 

「ちゃんと作る」はまた、「失敗の可能性」を不可避的に浮上させて、「試行錯誤」を当然とさせます。

「ためらい」と「挫折」があって、そのいたるところに口を開けた「失敗への枝道」を回避しながら、「出来た」の待つゴールへ至らなければなりません。

「作る」という行為は、葛藤の中を進むことなのです。

「ものを作る」という作業は葛藤を不可避として、葛藤とはまた、「時間」の別名でもあります。

「時間をかける」とはすなわち、「自分の都合」だけで生きてしまう人間の、「思い込み」という美しからぬ異物を取り去るための行為なのです。

ところが人間はあるとき、この「時間がかかる」を、「人間の欠点」と思うようになりました。「欠点だから克服しなければならない」と思ったのです。

それで、「時間がかかる」を必須とする「人間の技術」を、機械に移し替えようとしたのです。産業革命以降の「産業の機械化」とは、この事態です。

 

「影響を受ける」というのは、「落とし穴に落ちる」と同じです。

落ちたら、落とし穴から出なければなりません。

「自分の存在を作る」とは、いつの間にか落ちていた落とし穴から出るということで、努力がいります。

影響を受けたら、その影響を払拭する努力をしなければなりません。

それをしないのは、「カッコいいと思った人間の真似をして、自分もカッコよくなったと思う」と同じです。

「自分」という存在は自分で作るもので、他人の影響力に従属するのは、信仰の世界です。

 

「あはれ」というのは、感動実感が胸に染み入って来て「自」と「他」の区別をなくすようなものだと私は思いますが、「あはれ」をそのように規定した時の「をかし」は、他人事です。

自分と対象との間に明確な一線があって、自分はその対象より優位な立場に立って、「おもしろい」だの「魅力的」だの感じています。

自分と「他」との間に一線を画すことが当然であるようなあり方をしている清少納言は、だから「をかし」を連発するけれど、「年の暮れはてて人ごとに急ぎあへるころぞ」と外界を見る「徒然草」の作者は、その「他人」と自分との間に線を引かない。だから「あはれ」と思う。

 

自分の周りにある自分とは直接的に関係のないものを「美しい」と思わせるような、リラックスによる思考停止を可能にするのは「人間関係」だけです。

「人間関係」には、わずらわしいとかイライラさせるという側面もあって、だからこそ、「一人になるとほっとする」ということもあります。

でもそれは「人間関係」のせいではありません。「いやだと思う人間関係」のせいです。

 

「美しい」は、「人間関係に由来する感情」で、「人間関係の必要」を感じない人にとっては、「美しい」もまた不要になるのです。

私の言うべき結論は、「豊かな人間関係の欠落に気づくことが、人の美的感受性を育てる」です。

 

「美しい」を実感する能力を養うために、「豊かな人間関係」は不可欠です。

それがあって、人は安心して外部に目を向けることが出来ます。

「美しい」は、リラックスした「安心できる思考放棄」から生まれるのですから、それを可能にしてくれる人間関係がなかったら、「美しい」という実感も宿りません。

しかし、「美しい」と感じる能力は、「外」に向けられなければ意味のないものです。

「豊かな人間関係」があっても、その人間関係が「ここが一番豊かなんだから外なんか見ずにここを見ていればいいんだ」と強制するように働いたら、「外」に向けて機能するはずの「美しい」は育ちません。

「リラックスを実現させる人間関係」は必要で、そしてもう一つ、「自分の所属するもの以上にいいものがある」という実感、つまり「憧れ」がなければ、「美しい」は育ちません。

「自分にはそれが欠けている。でもそれはいいものだ。だから、それのある方向へ行こう」もまた「外への方向性」で、「美しい」を育てるのはこちらです。

 

「寂しいのはいやだ」ということが分かるのは、「寂しくない」という状態がどういうことかよく分かってのことです。

「寂しくない=幸福」が分かっていれば、「寂しい=いやだ」でなんとかしようとします。

なんとかする前に、自分の前にあって輝いているものに、「寂しくない=幸福=美しい」という発見をします。

その発見をして幸福になって、その発見をする自分の孤独を知ります。

つまり、「美しい」と思うことは、「幸福を欠落させている自分の現状をなんとかしよう」と思う、前向きのエネルギーになるのです。

 

「孤独」は、「孤独」というマイナスの方面から、人の個のありようを保証します。

近世の前、まだ制度社会が十分に完成していないとき、人の孤独は宗教によって癒されます。「仏」があって、「宗教」が健在である限り、人は「自分の孤独」に直面しなくていいのです。

兼好法師が孤独なら清少納言も孤独で、それを言うなら、歴史に名を遺す人のほとんどが孤独です。

孤独でもなかったら「歴史に名を遺す」などということをする必要がありません。

「美しい」というのは、幸福でもありえて、しかし不幸でもありえるような人間が、自分の「孤独」というものを核に据えて、格闘しながら捕まえていくものでもあります。