「たとえ世界が終わっても」橋本治

以下、気になった部分を抜粋

経済は飽和を超えて欲望を無理やり刺激する段階に入っている。

それが行き着く先はバーチャルな方向にしかありえない。

だから、かつては世界中に自動車みたいな工業製品を売って、「実体経済」を支配していたアメリカも、八十年代の後半に「かつての敗戦国」の日本に負けると、そこから「金融経済」っていう、バーチャルな空間に軸足を移したでしょう。

 

でも、そんなことをずっとやってりゃ、どこかでガクッと来るに決まってるよ。

それが「バブルがはじけた」であり、リーマンショックだったわけ。

それを「中国経済が成長するから、きっと大丈夫」って言って、立ち直ったことにするんだから。もう、ゾンビみたいなもんですね。

 

経済なんて本来「実体」がなきゃおかしいのに、「実体経済」と「金融経済」を分ける。

「金融経済」という変な言葉で経済を語ってしまう時点で、既に「飽和」を超えたファンタジーの世界に入っている。

 

本来、株式市場でも為替市場でも、市場とは何かと言えば、そこに投資したらお金持ちになれるというような場ではない。

投資って、「産業をおこすため」にみんなで金を出し合うっていう、ある種の「助け合い」だったりしたのが本来でしょう。

そういう風に実体経済を無視して「金融経済だけあればいい」っていう考え方自体が、実は、経済を自滅させる考え方なんですよ。

 

だから、「この先どうするの?」って話だけど、「大きくならない金儲けの方法」って、実はすごく簡単なんです。

「今、本当になにが必要なのか?」っていう実体経済に根差した需要をきちんと見極めて、自分たちの出来る限りのものを作って供給するっていうことだけやってりゃいいわけよ。

そういうことやったって「大きく儲かる」ということは起こりませんけどね。

でも、そういう「小さな産業」とはいわないけども、個人商店のようなものがいくつもあれば、自ずとリスクも分散されることになる。

それって、ビジネスとして考えても、危機管理の鉄則にかなってるいいやり方なんですよ。

 

もう西洋は衰退しちゃってるのに、かつての「商売して儲けさせろ」という、産業革命後の西洋人の考え方だけは、世界スタンダードになってまだ残ってる。

もちろん「成長」は悪いことじゃないけど、自国のあり方を犠牲にしてまで、ただ「成長しました」の経済成長を追いかけるのってどうなんだろう。

それって国家として守るべき優先順位が間違ってるんじゃないのって思うわけ。

 

「歴史のif」っていうのは、考えたって意味がないのかもしれないけどさ、一つだけ「あの時もしも」っていうのがあるの。

それはね、どうして八十年代後半の日本は、バブル経済になる前に、「ちょっと、経済活動休もう」って思わなかったかってことですね。

五、六年日本が生産活動を休んでたら、生産過剰になるわけもないから、実体経済はちゃんと再開出来てたと思いますね。

世の中には、ちゃんと「生産調整」という言葉だってあるのに、なんでそれをやろうと思わなかったんでしょうね。

人間、儲かってるときは「まだ行ける、まだ行ける」って考えて、平気で限度を超えて危ないところへ行っちゃうもんだからね。

「限度」ってあるのよ。だから「自己犠牲」というブレーキだって意味があるのよ。

 

 

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