以下、気になった部分を抜粋
「自分のことを考える」をもっぱらにしていると、人間は孤独になる。
あるいは逆に、孤独だと、「自分のことを考える」をもっぱらにするようになる。
「自分の優位性を信じる」というのは、重要なことである。
これがなくなると、「誇り」というものが曖昧になってしまう。
「自分の優位性を信じる」は重要で、ここに「他に対して」がくっつくと問題になるというだけだろう。
不幸に堪える最大の方法は、不幸を自覚しないことなのである。
だから、「自分の不幸」は、往々にして他人によって発見される。
当人にはあまり「不幸」の自覚がない。
しかし、見る目が見れば、それは歴然たる「不幸」である。
「一般性をマスターしたその先に開花する個性」などという、都合のいいものはない。
個性とは、「一般性の先で破綻する」という形でしか訪れない。
「個性を獲得する」は、「破綻」と、「破綻からの修復作業」なのである。
「個性的でない人間」は「個性的」を喜び、「個性的な人間」は、それを「差別の一歩手前」として嫌悪する。
この違いはなにによって生まれるのかと言えば、「個性的」という言葉を生み出す元の「個性」が、「一般的なものからはみ出した、放逐された」という傷を負っているからである。
だから、意外かもしれないが、「個性的」としか人に言われない人間の目指すものは、「没個性」なのである。
我々は、「答がない」という状態に慣れていない。
だから、「寂しい」とか「無力だ」と思う。
しかし、「答がない」という状態は、最近あたりまえになって来た、「新しいこと」なのである。
それを嘆くのは、「もう子供ではない」と言われる段階になっている大人が、「大人としての責任」を回避しようとしているだけの、わがままなのである。