「父権制の崩壊 あるいは指導者はもう来ない」橋本治

以下、気になった部分を抜粋

世界的な右傾化現象は、かなりの部分が「家父長制へ帰りたい!」と叫ぶようなもので、右傾化人間達にとっての「理想のおやじ」はアメリカ大統領のドナルド・トランプだ。

 

父親を「父親」たらしめるシステムを失った父親は、ただ孤独になるのだが、その父親を「豊かさ」が包んでしまえば、そのことにあまりピンと来なくなる。

一家を構え「父親」となった彼に、「帰る家」と「父親という肩書」はあっても、「父親としての実質」はない。

家庭内での実権は、専業主婦となった妻のもので、かつての家父長制は家母長制へと変質してしまっている。

「これはへんだ!」と男が声を上げても、家の外部にあってかつては男を支えてくれていた「家父長制」という考え方は、とうの昔に消え失せている。

 

磯村尚徳を制した鈴木俊一の退陣以後、都知事はすべて「文化人知事」になった。

地方自治体の一つでしかない東京が、「東京だから」というなんとなくの理由で地域社会の実質をなくして行ったから、その行政の長である都知事も、それらしいお飾りの名誉職でよくなった。

知事は「いればいいもの」で、「実務の方は有能な事務方に任せておけばいい」という傾向は生まれてしまう。

だからこそ、2016年になってクローズアップされるような「都政は自民党都議団のボスに牛耳られている」というような状況も生まれてしまうのだ。

 

上に立つ者は「俺の意思は組織全体の意思だから、外がなんと言おうと、俺は俺の言い分を突き通す」と考えている。

しかし、組織を作る個人達は「組織の考え方、組織のボスの考え方」に沿って考えはしても、それと同時に「自分の考え方」も持っている。

こういう人間達がそれぞれの考えを持ち寄って「フレキシブルに組織を動かす」という方向へと、時代は向かっている。

でなければ組織は硬直化し、様々な問題が露呈される。

 

自民党に喧嘩を売るような形で、あるいは排除されるような形で、小池百合子が都知事に立候補して勝った。

勝った要因は政策なんかじゃなく、「自民党」という大組織に対して女が一人で立ち向かったというところにある。

小池百合子の出陣は、組織と個人の関係が問い直されるというか、「やっと検討が始まる」ということのスタートだったように思う。

 

希望の党首になった都知事の掘った墓穴はなんだろう?

組織はそれを作った人間の私物ではない。この原則を守らなければ、組織は死滅する。

政治の世界に慣れた彼女は「力がある人が組織を作って、そのトップになるのは当然でしょ」とやってしまった。つまり独裁を。

その傲慢さが「排除いたします」の一言に表れて、彼女の政治生命はある程度終わった。

 

古代日本の女帝は、ヨーロッパの女王と同じように、「王家の娘だから王家継承権はある」で即位した。

ある意味、「王や天皇は特別の存在だから、その血を引く子供達にも男女差別は起こりえない」というまっとうな法則に基づいている。

それが明治になって、「天皇は男子に限る」という安っぽい男性優位主義が起こり、ついでに古代の女帝達を「実質がない」という切り捨て方をしてしまったのはなぜか?

日本の女帝の見方にへんな色が混じったのは、私の推理では中国のせいだ。

中国だけではなく、東アジアで女帝、女王を認めるのは日本だけで、中国は男尊女卑の強い国だったから、女帝を認めない。

なんでも中国風にすればいいと思っていた奈良時代の日本は、「女は皇帝になれない」という中国スタイルを取り入れなかったが、明治の男達は中国流の男尊女卑に逆戻りしてしまったらしい。

 

「社会的な規制」が人を縛って、しかしその結果人を逸脱させないものでもあるということが、意外と忘れられている。

この「モラル」とも呼ばれる「社会的規制」は、人を縛るだけでなく、逸脱から人の身を守る機能を持っている。

かつてこの「モラル」は、同じ社会に住むすべての人間にひとしなみにかかったが、今や各個人が「モラル」と「逸脱」の間で「自分はどうあってしかるべきか?」を考えなければならない時代になった。

 

近代というものは王政の崩壊によって訪れる。

なぜかと言えば、政治が一人の権力者に集結してしまう体制下で、民主主義は起こらないから。

たとえば、第一次世界大戦はヨーロッパ各国の王様達が争って、その結果、王様達が力を失いいなくなってしまった戦争だった。

しかるに高度にして難解な観念哲学を生んだドイツでは、国民のレベルがまだそこまで達していなかったので、ヒトラー総統という疑似皇帝を生んだ。

一度終わった帝政だが、もう一度第二次世界大戦で敗北するまで、「一人の人間に国を預ける」という伝統的習慣は崩れなかった。

 

日本の場合は、江戸時代が終わると新しい時代の形式上の統治者として天皇を引っ張り出し、これを大時代なまでに神格化した。

統治者としての天皇の神格化、絶対化と共に、それまであった一般の家のあり方にも介入して、家長を絶対化する家長制度を作った。

このことによって、日本の男のあり方は、江戸時代よりも後ろ向きになった。

それまでは「なんでもないただのオヤジ」だった男に家長という無駄な権力を与えたので、妻や娘達は江戸時代よりひどい苦痛を味わうようにもなった。

大日本帝国時代の一般家庭は、それぞれが「小さな大日本帝国」で、大日本帝国が消滅したとき、日本の一般家庭もただの「家庭」に戻った。

 

もう「家」そのものが実質的な機能を失っている以上、一人の支配者、一人の統治者であるような家長に、全体を統率する力は宿らない。

近代の民主主義は、権力者をその基盤から解体してしまった。

しかし人は、まだ「力を備えた一人の指導者がやって来る」という幻想から離れられない。だから世界には、国民の考えから乖離してしまった独裁的な力を持つ権力者が頻出している。

内向きで周囲の声に耳を貸さない人だけが指導者になれるというのは、時代がそこで止まってしまっているからだ。

もう一人の人間に権力を預けて「指導者」と言うのをやめて、代表者が複数いてもいいあり方を検討すべきではないのでしょうか。

手近なところでは、別姓であっても夫婦がうまくやれて、二人で構成するものの代表者を無理に一人に限定しない。

そうして物事が円滑に進むように、人間は成熟しなきゃいけないんじゃないでしょうか。