以下、気になった部分を抜粋
人間が悩みにぶち当たるということは、その局面で、実はその人間がまだ全然若かったのだということが明らかになる、ただそれだけのことです。
いきなり、自分の忘れていた若さが襲い掛かってくるものだから、見栄っ張りの人間はそこでうろたえちゃうんですね。
もう、そこで「トクした!」と思っちゃったほうがいいと思うんだけどな。
「あ、自分にもまだこんな、ドキドキするような若さが残ってた!」と思えるっていうのは、実はとっても幸福なことなんですけどね。
基本的には、あなたの人生が破綻してないから、「このまんまでいいんだろうなぁ」とあなた自身が平気で思えているだけです。
大丈夫ですよ、そのうちあなたの人生は破綻します。
破綻して、この破綻をどうすれば取り繕えるであろうかなぁ、と考え始めた時、その時にあなたのホントの進路が見えてくるというだけです。
今の世の中っていうのは、どこまで自分の個人的な不幸を一般化できるかってことにかかっています。
どういうことかというと、「僕がこんなにも不幸だなんてことは、あまりにもひどすぎるじゃないか!」ってことを言いだして、ある程度以上の人に「なるほど」って、言ってもらえたら勝ちだっていうことです。
要するに、きみが「不幸だ」って言っても説得力がないってことは、きみ自身に魅力がないってことに尽きる訳ね。
魅力的になんなさいってことよ。そうすれば、「僕はこんなに不幸だったです」ってことが説得力をもって他人に聞いてもらえるから。
そんでね、自動的にそうなると、きみはね、偉い人になってるのよ。偉い人っていうのはね、みんなそうやって我慢して、偉い人になるの。
人間、いくつになったって「もう働かなくていい」なんてことはないんです。
そんなことは、定年という形で社会から見放されてしまった「勤め人」という、せまい世界の男達だけの常識でしかないんです。
これははっきり断言できますが、自分で出した結論に「遅すぎる」ということはありません。
遅すぎると思ったら、それはその結論がまだまだ中途半端だということだけです。
陳腐と言うのは凡庸ということです。
凡庸ということは、ザラにあるということです。
ザラにあるんだから、別にそれをいやがることもないんじゃないかというのが、現代の最大の退廃なのです。
陳腐であるということは、退廃しているということです。
現代では、既に退廃もそこまで大衆化しました。
平凡こそは、人類の行きつく最終の安息の地だからです。そこが退廃しています。そこにいついたら、もう永遠に逃げ場はありません。だからすぐ逃げなさいと言っている訳です。
もしも踏みつけにされたらどうしようってことを前提にしてものばっかり考えすぎると、ますます寂しくなるし、すさむよ。
わざわざ、何も考えまいとする必要もないんだよ。寂しい時は寂しいって言わないと、後でホントに間違うよ。そんなにガードする必要はないんだから。それだけ頑張ったんだから、「ホントにつらかった。ホントに悔しかった」って、一遍ワーワー泣きなさい。
そうすればもう一遍自分の頭でものを考えられるようになるし、考えようっていう気にはなるんだから。
「それが簡単に言えれば苦労はしない」と、多分おっしゃるとは思いますが、簡単に言えなかったら苦労して言えばいいんです。
ずーっと放っといて凍り付いてしまった壁というのは、そう簡単に溶けてなくなるとも思えませんから。
会話に入っていけないのなら、入る窓口を作るしかありません。
そして、入る窓口というのは自分自身であり、自分自身で作るものなんですよ。
名刺で穴を空けようという不精に馴れ過ぎてしまったんですね。
どうかお願いですから、正直に「自分はこうなんだ」って、外に向かっておっしゃってください。
あなたは、そんな当たり前のことさえもまだしてはいないんですよ。
現実に働きかけるって、そういうことですよ。そういうちっぽけなことなんですよ。そういうちっぽけなことを無視して、あなたは現実を動かすなんていう、大それた歯車をやってた訳ですね。そんなちっぽけなことさえもまだなんだ。それが一番重要なことなんじゃないでしょうか?