「風雅の虎の巻」橋本治

以下、気になった部分を抜粋

よく「人間は衣服を剥ぎ取られた時に本性(素顔)をさらけ出す」なんてことを言いますが、これも嘘です。

その衣服を剥ぎ取られたら、その衣服に対応している自分とは別の自分が表れるというだけです。

どちらが虚でどちらが実ということは意味のない考え方なのです。

必要なことはただ一つ、虚と実との間にある自分の主観というものは“芸”という力業によってしか成立しないという、そのことだけです。

虚と実の間で揺られながら、バランスを取りながら“芸”という表現を進歩させて行くプロセスを“修行”といいます。

 

どこで一人前というゴールを見るのでしょう?

難しいようですが、存外簡単なことです。

「そのことで遊べるようになったら、その修業は終わり」だからです。

楽に出来るようになる、それをすることが楽しくなる、遊んでいられるようになったら、そのことに関する修行は終わりです。

「底の浅いものはすぐ飽きが来る」と言いますが、一通りに出来てそのことを楽しめるようになっても、いつの間にか飽きが来てしまう。

楽しみが濁るというようなことですが、そうなったらそれは自動的に、次の段階の修行の門口に立っているということで、そういう意味では、飽きが来る限り修行にはきりがありません。

ただ、人間というのは不思議なもので、いつの間にか「何をどうやっても楽しい」という境地はやって来てしまう訳で、それが“悟り”という修行のゴールです。

人間というものは結局、楽になる為に苦労をするもので、その苦労の数はその当人が必要な数だけきっちりあって、ただしその御当人にはその数が分からないようになっているという、そんなもんです。

 

人間というものは厄介なもので、苦労しないと“面白さ”というものが分からない訳で、“面白さが分からない”のレベルにいる人が、すべてのものを“つまんないもの”に変えてしまうというだけです。

世の中には一通り以上のことが出来ているくせに自分のしていることを鬱々として楽しまないという種類の人もいます。

そういう人は、“まだ好きになれていない”から楽しくない訳で、“好きになる”のも修行の内です。

 

自分はそのことを楽しく出来るような状態になって、他人もまたそのことを評価してくれる。

評価されてチヤホヤされて、自分のするべきことを楽しむよりも、他人にチヤホヤされることを楽しむようになる。

これを“天狗になる”と言いまして、表現のレベルは一定で維持されていても、いつかは腐るのです。

 

恋の不安というのは、見方を変えてみればいつだって傲慢なもので、“他人の魅力”と称される形でご当人は“変革の必要性”あるいは“成長の促進”というものを要請されてるんです。

 

人権思想が登場して来た時代以前には、当人が当人なりに自分の人生を願望する権利も、それを達成しようとする権利も与えられていなかった。

だからこそ“平等”という思想が生まれたんだということを頭に叩き込んでおくべきでしょう。

平等なのは“スタートする”“ゴールする”という、その“意志を有する権利”だけなので、“スタートの条件”や“ゴールの条件”なんていうものは、人によってみんな違うのです。