「評価と贈与の経済学」岡田斗司夫・内田樹

今している努力に対して未来の報酬が約束されないと働く気がしないという人が増えてきたけどさ、今している努力に対して未来の報酬が約束された時代なんて、これまでだってなかったんだよ。

努力と報酬が相関するというのは、理想なの。はっきり言えば、嘘なの。

 

「努力した分についてすぐ報酬よこせ」「苦労していい大学入ったのに就職がないのは理不尽だ」って言っている人は結局「努力した人はどこかで最後に報われる」っていうことを本当は信じていない。

本当に信じていたら、努力してなかなか報酬がやって来なくても、「そのうち、いいことあるよ」って思っていられるはずでしょ。ちょっとやって、「あ、来ない」って怒り出す奴は努力と報酬の原理的な相関を本当は信じていないんだよ。

今若い人に一番足りないのは、「努力あるいは才能に対する報酬は、いつか必ず来る」っていう事に対しての素直な信仰だと思う。

 

努力してるときに、本当はすでに「見返り」は得てるんだよね。

努力の報酬って、あとからお金で来るものだけじゃない。

 

貨幣も情報も評価も、動いているところに集まってくる。

貨幣の本質は運動だから、貨幣は運動に惹きつけられるんです。

だから、どんどんパスを出していると、「あそこはパスがよく通るところだ」って貨幣の方から進んでやってくるんです。

その十億円をどう分けて、誰と誰にパスしたら、いちばんファンタスティックな展開になるかな…ということを空想していないと。

「ほかの人間が誰も思いつかないような使い道」を脳内で妄想している人間のところにいきなりパスが来るんです。

 

僕らの仕事は、日本語に整えて、読んでもらって、びっくりして行動してもらうっていう仕事じゃないですか。

「うまく口車に乗せられてパッと行動したらなぜかうまくいった」という事例がネット上に十や二十くらいあれば、それが呼び水になってみんな動き出すと思うんですよ。

 

自分が他人から何をしてもらえるかより先に、自分が他人に何をしてあげられるか考える人間だけが贈与のサイクルに参入できる。

それはその人の貧富とか社会的地位の高低とはまったく関係がないことなんです。

 

「いい人」の善良さはいわゆる「利益」というかたちで外形化するわけじゃない。

彼が世界を救ったことの報酬は、「この人が世界を救ったのです」という外部評価によってではなくて、彼が今日も気分よく暮らしており、「いい人オーラ」を自分でも気づかないうちに圧倒的に発散しているというかたちで戻ってくるんだと思います。

 

AかBのどちらを選んだら生き残る、どちらかを選んだら死ぬ、というような切羽詰まった「究極の選択」状況に立ち至った人は、そこに辿り着く前にさまざまな分岐点でことごとく間違った選択をし続けてきた人なんだから。

それまで無数のシグナルが「こっちに行かない方がいいよ」というメッセージを送っていたのに、それを全部読み落とした人だけが究極の選択に辿り着く。

「前門の虎、後門の狼」という前にも進めず、後ろにも下がれずという状況に自分自身を追い込んだのは誰でもない本人なんだよ。

 

二人で生計を一つにして、一方が仕事ができなくなったら他方が稼ぐ、一方が病気になったら他方が看病する、そういう相互扶助・相互支援の安全保障体制を作り上げることが結婚の基本だと思うんです。

そういうふうにセーフティネットを形成しておけば、自分自身のフリーハンドはずっと大きくなるんです。

お互いにいつも貸し借りがアンバランスで、妻と夫それぞれ相手に贈与して、反対給付義務を感じて、それを相殺しようと絶えず動き続けることで夫婦のバランスが保たれるんです。

 

結婚もそうです。

「誰でもできる」というのが結婚制度を設計したときの第一の条件なんです。

それが今は、お互い死ぬほど愛し合っていて、尊敬し合っていて、あらゆる点で意見や趣味が合って、というような関係じゃないと結婚生活は成立しないという話になっている。

だから、平気で「価値観の不一致」というような理由で離婚しちゃうでしょう。

そんな高いレベルでの人間的一致が果たされなければ結婚しちゃいけないのだとしたら、人類はとっくの昔に滅亡してますよ。

 

男が結婚生活に求めているのは安心して幼稚化できる場ですからね。

裃を脱いで、へーってなってるときに、そういう自分を許してくれるような人を求めて結婚するわけだから。

もちろん女の子にも幼稚化したい、甘えたいっていう願望があるから。

お互いに相手に求めているものって、実は一緒なんですよね。つまり、「母親」なんです。男も女も配偶者に母親的なものを求めている。

 

人間は常に自分に向けられた敬意を感知しようとするセンサーを働かせている。

だから、誰かが自分に対して敬意を持っているということははっきり伝わる。

それは文章であっても変わらないんだと思う。

書き手が読み手の知性を信じているのか侮っているのかは、読めば一瞬でわかりますよ。

 

世界的な大作家はみんなそうです。彼らがすごいのは単純に「読者のみなさんがたの知性を私は信じます」というかたちでは迫ってこないことなんです。「みんな分かるよね」じゃなくて「みんなは分からないけれど、君だけにはわかるよね」っていきなり耳元で囁かれたような感じがする。

「みんなに話す話法」っていうのは人によってそれほど技術レベルが変わらないので、急に近づいて「あなたに話す話法」を使えるかどうかに書き手の力量が表れる。