「貞女への道」橋本治

以下、気になった部分を抜粋

女の自由というものは、それを締め付けていた男の側の譲歩なり撤退なりがあってのことなのですから、女が自由になった代償として、今の女性の前にはだらしのない男しかいないのです。

 

夫が妻に歩み寄り、妻が夫に従うというのは、ほとんど存在しないような空想で、実態は妻が一方的に夫に従うことによって夫婦というものは成立していた。

そのことを不思議とも奇異とも男達が思わないことを前提にして、女のあり方が決定されていたという、そういう時代の延長線上に「現代」という時代はあるんですね。

 

内面のすべては外見に現れます。

ただ、その現れたものをどう判断処理するかということになると、これは「年季がいる」というようなもんなんです。

なんにも知らない子供だったら、外見で人を判断するべきじゃない。

でも、一人前の大人だったら、それぐらいの判断が出来ないのは恥ずかしい。

 

他人を愛するということは、やはり「分かる」ということなので、自分の相手を「見る」ということも必要なんですね。

そして、その相手こそが、歪まない自分を映すような「本物の鏡」であるのだということを知る。そのことから本当の、貞女への道の第一歩というものが始まるのです。

「分かる」ということは、実は「許す」ということにも等しくて、相手を許すことが自分を許すことでもあるということを知るのが、「謙虚」というものではないでしょうか。

それが即ち、相手を「立てる」ことなのだと。

 

知らない他人、自分以外の他人、というものは、やはりそれぞれに生きていて、それぞれの人生というものを持っているわけですから、放っておいても知識の宝庫です。

「その人を知りたい」と思えば、それで恋というものが始まったも同然なのですから、恋というものは必ず、人を成長させます。成長した結果、ちゃんと自立できます。

 

知性がある、深い思慮に裏打ちされたものが本当の勇気で、ただのむこうみず、ただのガムシャラ、深く考えない勇気のことを「蛮勇」と言ったのです。

これはバカな人間のすることで、勇気の二流品でした。

人間、知らないことに手を出すのは慎重であって当然のことで、下手をすれば臆病と呼ばれかねないところもあります。

しかし本当の勇気というものは、自分の中にある臆病心、弱さというものを認め、それを克服しようとするものです。

 

知性というのは、「大丈夫、自分はしっかりとこの曖昧な自分自身を持ちこたえることが出来る」という、そういう力です。

知性というものは持っているだけじゃなんの役にも立たない、それをもっていることで初めて人間が安定するという、そういうものですから、いくら教養があったって、その人がしっかりしていなければ知性というものは身に付いていないのです。

 

器量よしなら人からチヤホヤもされやすい、でも、不器量だったらあんまりそういうことにはならない。

だから「自分でしっかりするしかないな」と思って、その結果よりしっかりとする。これが不器量です。

しっかりすれば落ち着きも出て、ゆとりも生まれる。

器量よしかどうかというようなこともあまり気にはならなくなる。

だからその結果、器量よしかどうかという細かい詮索を超えた、本当の美しさが生まれる、ということなのですね。